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漢字(かんじ)制限(せいげん)は、表現(ひょうげん)自由(じゆう)侵害(しんがい)するか?
ユズリハ サツキ 
 【漢字廃止論への批判】
 漢字によって日本語の表現力は、すばらしく豊かなものになっている。漢字制限は、この日本語の多様な表現力をしばるものであり、書き手の表現の自由を侵害するものである。まして、漢字の全廃など論外であろう。

 【反論】
 漢字を使うことによって、文章の字ヅラは確かににぎやかなものになります。しかしそのことが日本語に真の生命力をもたらしている、などということは決してありません。が、ここではそのことについては省くこととし、日本語の表記について、コミュニケーションの手段としてのあり方と「表現の自由」の関係を考えていきます。

 まず、かつて「当用漢字表」や「当用漢字音訓表」などによって行われていた、また、わたしたちが当面の目標としてめざしている漢字制限は、私的な文字使用まで制限するものではない、したがって、創作の自由にまで踏み込むものではない、ということをハッキリさせておきたいと思います。

 戦後の国語改革の一環として行われた漢字制限は、あくまでも一般社会での漢字の使用を整理することによって、国民すべてが不自由なく読み書きができる共通の基盤を作ることが目的でした。したがって、私的な文字使用にまで干渉するものではなく、その必要もなかったのです。ですから、漢字制限が本質的に「表現の自由」を侵すものである、などというのは当たりません。

 また、当時漢字制限は、新聞や放送などのマスメディアを始め、一般社会もその必要性を認め、国の国語政策に協力しましたが、「当用漢字表」にない漢字を使ったコトバは、漢字の書き換え〔編輯 → 編集〕やコトバの言い換え〔塵埃 → ほこり〕、かな書き〔斡旋 → あっせん〕などで表わすことができましたから、言論や報道の妨げにはなりませんでした。制限されたのは、表現の内容ではなく、見かけであったからです。実際、大した混乱も起こらなかったのです。

 ただ、寄稿された記事などでは、書き手が使おうとした漢字が本人の意に反して、メディアの判断で別の漢字やかなに換えられてしまう、ということはありました。しかし、公共のメディアで表現の見かけが自分の思うとおりにならないからといって「表現の自由」を侵されたなどと言えるでしょうか。自由は、最大限に尊重されるべきものではあります。しかし、無条件の自由などどこにも存在しません。「表現の自由」は精神的自由権のひとつですが、権利の乱用が認められないことは、いうまでもありません。

 運転免許を取れば、自動車を運転する自由を得たことになります。しかし、それは、交通法規の枠の中での自由です。公道で制限速度を無視して暴走すれば交通違反として罰せられます。ほかの車両や歩行者が安全に通行する権利を脅かすことになるからです。道路は個人のものではなく、社会の共有財産です。社会のルールに従って使わなければなりません。スピードを堪能したければ、サーキットなどを利用すればよいのです。

 コトバを文字で伝えるメディアも、道路と同じく、社会の共有財産であり、公共の利益にかなったものでなければなりません。自分が多くの漢字を知っているからといって、みだりに使えば必ず混乱を引き起こします。読み手が読めなければ、文字としての役割を果たしません。「知る権利」を奪うことにさえなり得ます。使える文字を制限するのはけしからん、などというのは、高性能の自動車を持つドライバーがほかの通行者の安全を考えずに、速度制限を撤廃しろ、といっているのと同じことです。自由のハキチガエというものです。

 それでは、公共の利益にかなった日本語の表記法としてメディアに望まれるものは何でしょうか。それは、徹底した漢字制限です。大多数の人々の共通のコミュニケーションの手段としては、漢字をゼロにすることが理想ですが、一挙にはできません。当用漢字の数は、1850字でした。数千もの漢字をそこまで制限できたのですから、さらに減らして行けないはずがありません。

 (『カナノヒカリ』 936ゴウ 2007ネン ナツ)(一部書き改めた。)

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