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日本語(にほんご)をバリアフリーのコトバに(2)
視覚障害者(しかくしょうがいしゃ)をコトバの弱者(じゃくしゃ)にしているものは(なに)か~
キクチ カズヤ 
 一般に、コトバや文字について論じられるとき、視覚障害者や知的障害者、外国人などについてはほとんどかえりみられることがなかったように思われます。そのことが意味するものは、言語生活において弱者の状態におかれている人々がいるということに対する驚くべき無関心ではないでしょうか。そのようなことでいいのでしょうか。
 視覚障害者などを言語生活における弱者にしているもの。それは漢字です。漢字がバリア(障壁)となって、それを使うことの困難な人々のコミュニケーションをさまたげ、さらには社会的活動の上でも制約をもたらしているのです。今回は目の不自由な人々がおかれている状況につい考えてみたいと思います。
 日本語の通常の表記は漢字カナ交じりです。しかし、いうまでもないことですが、盲人は漢字を読むことができません。特に、先天的な盲人は漢字そのものを知りません。漢字は視覚に依存する文字であり、しかも数の多いものですから、盲人が漢字を習い覚えることは不可能です。かれらが使うことのできる文字は、カナに対応する点字です。かれらは漢字なしで生活しているのです。(漢字に対応する「漢点字」(点字の漢字)というものも考えだされていますが、特に中途失明者は普通の点字さえ使わない人が多いということもあり、覚えるのに耐えがたい苦労を必要とする漢点字が広く使われるようになるとは考えられません。)
 ですから、ご承知のように盲人への情報の提供は、おもに点字の出版物や、音声によるサービス、すなわち録音図書や対面朗読などによって行なわれています。
 わたしの知り合いに、ボランティアでその仕事にたずさわっている人がいます。図書館から依頼を受けて、図書や広報紙などを朗読してテープに吹きこんだり、あるいは直接盲人に朗読して聞いてもらっているのですが、彼女は漢字のために書き手の言わんとすることが聞き手に伝わらないことしばしばある、と言います。
 彼女から聞いた実際の例を挙げてみましょう。
 字の書き分け、たとえば、「代える」「替える」「換える」「かえる」「カエる」などによる効果はもちろん音声では伝えられません。しかし、誤解をもたらすようなことはまずないので、問題とは考えないそうです。
 問題なのは、耳で聞いただけでは意味の分からない、たとえば、「騙取」「減容」「机間」といったコトバです。特に、専門用語では多くみられます。しかも、こういうコトバは今も増えつづけています。(最近の例では、「防汚」)。目の見える人ならば字の意味からなんとか見当をつけるのですが、盲人はそうはいきませんのでとても困ります。
 もうひとつの大きな問題は、同音異義語が数かぎりなくあることです。「試案」と「私案」など文脈によっても判断しにくい同音異議語は、対面朗読では説明を加えるようにしているのですが、ウッカリすることもあるそうです。あるとき、対面朗読で「首都移転に意義はありません。」(東京都の主張)という文を読んだあとに、相手の盲人から「東京都はいつから首都の移転に賛成するようになったのですか。」と聞かれてハッとしたそうです。その盲人は「意義」を「異議」と取りちがえていたのです。彼女は充分注意しているつもりでも気がつかないことがあるといいます。
 彼女は、このような耳で聞いて理解できないコトバが使われるのは晴眼者が盲人への配慮をまったくしていないからだと批難します。そのとおりだと思います。が、補足をさせてもらえば、耳で聞いて分からないコトバや、同音異議語がたくさんできてしまうのは、漢字の音の乏しさに原因があります。漢字自体に問題があるのです。(くわしくは、「カナノヒカリ」1998年10月号のわたしの文章をお読みください。)
 ここまで述べてきたことは、点訳の場合でもまったく共通する問題でしょう。なお、朗読や点訳の対象になるものは 書きコトバですが、話しコトバでも視覚に依存するコトバつまり漢字コトバ(漢語)が盲人にとってバリアになっていることは明らかでしょう。
 さらに、盲人の社会的活動の観点から指摘しておかなければならないことがあります。それは、漢字のために盲人は 職業など活動の範囲がなおさら狭められていることです。かつて、カナ・タイプライターというものがあり、これは盲人がたやすく用いることのできるものでした。しかし、現在の漢字を使うコンピューターは、障害者が扱いやすいようにするクフウは試みられているものの、カナだけを使う機器にくらべ盲人にははるかに使いづらいものです。
 もうひとつ忘れてならないことは、晴眼者の漢字への礼賛が盲人に肩身のせまい思いをさせていることです。漢字が 日本の文化そのものであるかのように言う人が少なくありませんが、かれらはそのことによって盲人をいかに傷つけているか意識していないでしょう。いったい漢字を使うことのできない盲人は日本の文化の担い手の一員ではないのでしょうか。実際、わたしはある盲人から、漢字を知らないことをとても恥ずかしく思っている、と告白されたことがあります。しかし、恥じなければならないのは、盲人にこのような思いをさせていることに考えの及ばない人々ではないでしょうか。
 盲人がたとえば美術を楽しむことができないのはやむを得ないことでしょう。しかし、コトバは目が見える見えないにかかわりなく、だれもが生きていくために必要とするものです。日本語をカナや点字のような表音文字で書いても充分わかる、耳で聞いて誤解が生じない、すなわち視覚に頼らないコトバに進化させていくことはできるのです。視覚に依存する文字である漢字を日常生活で使う文字としては引退させることにすれば、日本語はそのようなコトバになって行くことができるでしょう。(これは決して日本語のレベルを下げることではありません。むしろ晴眼者にとってもよりよい言語生活をもたらすでしょう。このことはカナモジカイが訴えつづけてきたことです。)
 現在、わたしたちの社会では「バリアフリー」化が進められています。公共的施設などでは盲人が利用しやすい ように設備が整えられつつあります。当然のことです。しかし、「バリアフリー」とは、「物理的な 障壁」だけではなく、「制度的な障壁」、「意識上の障壁」そして「文化・情報面の障壁」のすべてを取り除くことです。盲人にとって漢字はとりわけ「文化・情報面の障壁」であることをハッキリと認識し、漢字に依存しない日本語づくりをめざしていくことが、わたしたちの責務ではないでしょうか。

〔ツケタシ〕
 彼女の悩みはまだあります。どう読んだらいいのか分からないコトバがたくさんあることです。「明日」は「あした」とも「あす」とも「みょうにち」とも読めます。「一時」は「いちじ」とも「いっとき」とも「ひととき」とも読めます。彼女は「特に文学作品ではどう読んでもいいということはないはずだし、録音はあとに残るものなので間違いのないようにしたいが、どう読んだらいいのか迷う。迷ったあげく結局分からない。」と言います。(正解は著者しか知らない!) 人名については言わずもがなです。
 不思議なことに、晴眼者は読み方が分からなくてもあまり気にとめません。字が目に入ってくるだけで分かったような気になってしまうのでしょう。作家はひとことひとことに心血を注ぎこんでいるはずです。字の読み方だって、いい加減に考えて欲しくはないでしょうに。

 (『カナノヒカリ』 913ゴウ 2001ネン アキ) (一部書き改めた。)

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