「カナノヒカリ」 902ゴウ (1999ネン 2ガツ)

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》本の紹介《 ましこ ひでのり あらわす 
『イデオロギーとしての「日本」』

                                             キクチ カズヤ 


   
  本書は 知識社会学的方法論に よって イデオロギーとしての 日本意識・イメージを 分析し,するどく 批判した もので,検討の 対象として おもに 大衆消費財としての 教科書・参考書類(国語科と 社会科)を とりあげて いる。
  本書を この 雑誌で 紹介しようと いうのは,「国語国字問題」と よびならわされて きた コトガラに ついても かなりの ページを さいて 論じて おり(社会言語学を ふまえて),しかも その 基本的な カンガエカタは ワレワレの それと ちがわないようで ありながら,しかし アラタな 視点を 提供して いるように おもわれるからで ある。
  紹介とは いっても ―― 著者に 対して 非礼では あろうが ―― 漢字イデオロギーを 論じた 部分のみに かぎらせて いただいた。ワタクシは,知識社会学に ついても,また 本書が 対象とする 問題の ほとんどに ついても まったくの 門外漢で あるからで ある。

  漢字論が 展開されるのは,第2章「イデオロギー装置としての国語」第7節「漢字イデオロギーの論理構造」からで ある。この 節では「日本語に とって 漢字は 不可欠で ある」と いう イデオロギーが 分析されて いる。
  まず,「同音異義語を 区別する 機能を 漢字が になって いる」という 論理に 対して,漢字の 音ヨミの 音形の カタヨリが 同音語の 元凶で あって,「同音語が おおいのは 日本語の 音節数が すくないせい」と いう 主張が なりたたない ことを 論証し,つづいて 井上ひさし,福田恒存ら 漢字擁護論者に よる 漢字批判への 攻撃が「イイガカリ」,「アゲアシトリ」でしか ない ことを アキラカに する。さらに,“漢字へのこだわりは,〈はじめて接したメディア〉という「すりこみ(imprinting)」によって,その合理性の有無にかかわりない「フェティシズム」としてかたちづくられ,ついには,そのつかいがってのわるさを,たえざる差別化再生産装置にいかすまでにいたる”と 指摘する。
  ツギに,「文字は オトの 転写手段で ある」と する 西欧近代言語学の 前提への 漢字擁護論者に よる 批判に 対しては,その 前提が アヤマリで ある ことを みとめつつ「うつしとる ための 手段で あるべきで ない」と いう 論理は エリート主義に ほかならないと 批判する。そして,ハナシコトバから かけはなれても なるべく ひろい 時間,空間に 通じる ことが 大切だと する カキコトバ保守主義は 中華文明の 栄光=幻影に しがみつく ものだと する。
  つづく 第8節「自明視される漢字システムの,構造的矛盾」では,戦後の 漢字制限や カナヅカイの 改定などに よって カキコトバ日本語は やさしく つかいやすくは なったが,それで 完全に 民主化が 完了したのかと 疑問を なげかける。
  社会が 漢字カナマジリ文に よる ことを 前提と して おり,また当面 それが おわるとは かんがえられない 以上,ワープロ ―― それは 事実上「漢字プロセッサ」で ある ―― の 一般化は「漢字フェティシズム」「漢字依存症候群」を つよめる ことは あっても,よわめる ことは ないだろうとの ミトオシを しめしつつ,しかし 問題は 技術的進歩に よっては 絶対 解消されないで あろう 漢字の 構造的,致命的矛盾で ある ことに 注意を 喚起する。
  漢字システムは 根本的欠陥として 数が おおいこと,正書法が 構造上 確立しえない ことの ほか,冗長性が もたらす 深刻な 機能障害(カタチ,ヨミが にている 漢字・漢語は まちがえやすい)などの 矛盾を かかえ,ワープロで 情報処理する ときにも 問題を ひきおこして いる ことを 指摘する。そして,漢字の 字形の アヤマリ などは コミュニケーション という 見地からは とるに たりない 問題で あることを 強調する。
  つづいて,いまだ 研究が すすんで いるとは いえない 漢字システムに よる 国内の 固有名詞への 暴力的圧力に ヒカリを あてる。北海道に おける 地名への 漢字の オシツケが もたらした アイヌ語地名の 変質,沖縄に おける 人名・地名の 規範化された(標準語の)漢字の ヨミ体系に よる ヨミカエ,小笠原に おける 先住者の 人名の,漢字を 媒介と する 日本化 など。
  第9節「よみかき能力の「自明性」」では,多対多対応の 日本語漢字システムが その 複雑サ,ムズカシサから それに のりきれない 少数者 ―― 境遇の 問題に よって 漢字文化から「おちこぼれた」 ヒトビト,漢字システムから 疎外されざるを えない 視覚障害者や 外国人 など ―― を 構造的に つくりだすこと,そして 排他的な 差別化装置として 機能して いる 事実を あばきだす。
  そして,この ような システムへの 適用を「自明」で あるかのように ふるまうのは イキスギで あり,むしろ 世界レベルで 相対化する 視点を コドモに 提供する 義務が あると 主張する。
  第11節「イデオロギ−装置としての「国語」 ―― 小括」では 著者が 本書を 展開した 目的が ツギの ように のべられる。“こうした〔亀井孝,田中克彦,野村雅昭らの〕理論的蓄積にも,なにかものたりないものがつきまとった。それは,漢字イデオロギーや標準語イデオロギーの神話の解体=逆機能性の暴露には成功しながらも,そこから解放されるためのいとぐちがみえてこないという、いらだちであることがわかってきた。”“すぐに,事態が改善されるかどうか,そういった現実的プログラムまではもとめまい。しかし,事態を改善する必要などかんじていないらしい大衆心理に,どうかざあなをあけらえるかかというみとおしは最低必要であろう。”
  さて,ワレワレ カナモジ論者は そのような ミトオシを はたして もって いるだろうか。

  ところで,本書の 表記上の 特徴は,ヨコガキで あり しかも 訓ヨミ漢字を つかわず,引用文献も カナガキされて いる ことで ある。これは,著者 みずから 序章で のべて いるように,「現代日本語表記へのといかけと妥協の産物」で あるに ちがい ない。
  そして,補論2「リロンの ジッセン・レー 「ジユー・シュギ シカン」お めぐる チシキ・シャカイガク」は 全文 カタカナと ヒラガナで かかれ,ワカチガキも おこなわれて いる。ツギの ように。
   「これまでの レキシ・キョーカショの キジュツわ イデオロギー・テキな くみたてに なっている」。 こーいった シュチョーお テンカイする ことで,さかんに ワダイづくりに うごいている シューダンが ある。
  なお 著者は 本書を あらわす マエに カナガキの 論文を いくつか 発表して いるが,それらに ついては,巻末の「参考文献」を ご覧いただきたい。

  ハジメに おことわりした ように,ここで ワタクシが 紹介したのは 本書の 内容の 一部分でしか なく,ホカに「国語」に 関する 部分だけでも「「母語」概念と「国語」概念」,「標準語、共通語、方言の 関係性」など 興味ぶかい 問題が とりあげられて いる。(本書が 中心的に とりあげて いる ものは「沖縄問題」で ある。)
  本書は 大学教員で ある 著者が 学位申請の ために 提出した 論文を もとに した もので,かならずしも よみやすい ものでは ない。(ワタクシの ような アカデミズムとは 無縁な ものに とっては)が,それだけに ナカミの こい 著作で ある。ここで 紹介した 諸問題に 関心の ある ヒトに とっては とりくむ 価値が ある ものと 信じる。

   (三元社,1997年5月12日初版発行,3,200円)

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